昭和54年6月22日 親先生朝の御理解

 「御理解第九十二節」
神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところは無い。あそこではおかげを受けたけれども、ここではおかげを受けられぬというのはもりもりの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば諸事に身を謹み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。



 昨日は、ちょうど午後の奉仕をさせて頂いておる時でしたが、尾道からというてお参り。私は、覚えませんけれども、前に一回お参りをさせて頂いた、夫婦で。それこそ呉服の卸問屋をなさっておられるという、まあご立派な夫婦でしたが。先日お参りをさせていただいて、それこそどこへ参ってもおかげにならなかったのが、お願いをして帰りましたらおかげを頂いたというお礼参拝がございました。そしてまた、あることのお願いをなさってかえられましたけれども、これなんかは、やはり、それこそ尾道からここ迄はどれだけ教会があるか分かりませんよね。
 けども、どこででもおかげを受けられなかった者が、おかげを受けた。これは、合楽のおかげであり、合楽の親先生のお取次ぎのおかげで助かったとして、昨日は夫婦でお礼参拝があった。ちょうど研修が始まりましたから、研修を頂いて帰られた。その中で、私はお二人が頂かれた御理解を芯にして、なら研修生の方達に、まあ聞いて頂いたんですけれども。
 梅井、いや櫻井と頂いて、次に梅井と頂いた。ね。桜の井戸の井ですね、櫻井。それから梅井。ああ昨日の朝の御理解がね、今までではね、今までは、いうならおかげが受けられないなら、今までのような信心ではいけない。だからもう一段と進めなければというのでした。ね。そんなら、桜の信心、桜の花の信心より梅の花の信心をせよと、こう仰せられる。だから、桜の花の信心で、なら、この前のおかげを頂いてみえたんだけれども、ね、今日のお願いは、ここにひとつ一段と、梅の花の信心にすっきり切り替えるようなおかげを頂かなければいけません。ね。
 それで、今日を境に、ひとつ大祓信行を夫婦で始めなさい。奥さんが五巻。ご主人が五巻。そうすっと次ごう十巻。ね。それは、あれば貰わんならん、これを頂カンナらんから、今までは参ったり拝んだりしておったでしょうと。ね。これが桜の花の信心じゃ。おかげを頂かんならんから参っとった。おかげをね、貰わんならんから信心しておったというところから、ね、それを桜の花の信心とすると、これからはひとつね、信心を頂かなければいけない。神様に喜んで頂かなければならない。そういう信心に切り替える。それは、あれもこれもとは言わんから、大祓信行を徹底してひとつ上げなさい。宅の神様がね、生き生きとしてみえますよと。
 いうならば、神様が栄養失調になってござる。その栄養失調なってござる神様が手も上がらんごとなってござるからおかげを頂きにくくなっとるとじゃから、ひとつ本気で、ひとつ御神飯を奉るような心持ちでね。二人で大祓いを五巻づづ、もう無条件で、ひとつお供えなさるといいですねと。で、申しました。それが、なら梅の花の信心なるのでしょうかと。うん、それが梅の花の信心と言や大変難しい。もうとにかく、おかげを受ける信心が梅の花なら、いうならば御徳を受けるという信心が、おかげを受けるという信心が、桜の花の信心なら、ね、御徳を受けるという生き方の信心になることが梅の花の信心だと。それにはやっぱ辛抱がいる。もう今日はいっちょ止めとこう、といったようなことを、ではいけません。
 と言うておるところへ、ちょうど池田先生がうしろへやって参りましたから、御用で。この人がですね、ここで大祓信行を始めた時分に、一日大祓信行を怠った。そしたら朝方のお夢に、御神飯が欠けておるところを頂いた。もうびっくりして、それこそ、ただ私共の大祓信行が神様が、ままになって下さるための働きをしておるものならば、これは一日だってこの修行を、いうならば御神飯を奉るつもりで、ひとつお供えさせていただこうという気になった、という池田先生の話をさせて頂いたから、まあ、実感として分かられた。はーその位のことが梅の花の信心になるのならば、と思われたんでしょうね。あとの一時間のあの研修も熱心に聞いて帰られた。ね。
 お互い例えば、今日の御理解を頂きますと、ね、うーん、先生が、いうならば朝の早い遅いが、信者のお参りの早い遅いにかかわるぞ、ということは、ただそういうことだけじゃないです。ね。十(とお)の信心をすれば十のおかげが受けられ、七つ(ななつ)の信心をすれば七つのおかげが受けられると、はっきり言っておられるんですよね。おかげを受けられん時には、だから一段と信心を進めなければ、その工夫をしなければ、ね、おかげにならんことが分かります。
 願っても願ってもおかげにならん。ね。ならばこれは、いうならば、ね、ね、朝参りなら朝参りがです、ね、いうならばキチッとした信心をさせてもらうから、キチッとしたおかげになる。先生が早起きをすると信者も早起きをする。ね。それを見習うという意味じゃなくてです、これは、おかげの世界というものが、そんなにすっきりとはっきりとしておるものだと教えられてるんだと思うんです。ね。
 だからもう信心はもおう限りがない。ね。おかげを受けられない時には、一段と信心を進めてみなければいけない。また、工夫をしなければいけない。今までの信心では今までのおかげ。今よりのおかげ、よっと、もりおかげを頂こうと思うなら、そこに信心の工夫がされてです。
 昨日私が、修行生の先生方に申し上げたことですけれども、ね、今合楽では、表行全廃、もう表行、いうならば昔は水をかぶったり、断食をしたり様々な形の行をさせて頂きよったけれども、これは、教祖の信心に基ずくとして、ね、表行全廃した。これは、もちろんご信者さん方も表行をなさる方がなくなった。ね。だから、楽になったというような事ではおかげにならないよ。その表行を心行に切り替える、家業の行に切り替える。家業そのものが行だ。ね。心行、もうこれは、心の中に一生懸命で、それこそ水をかぶったり、断食をするくらいな決心をもってです。一生懸命のものがなかなければ、ね。
 先日からの御理解のように、喜ぼうと思うて喜べるものではない。一生懸命の信心に神様が感応まします、感動まします。その感応が、感動がこちらに返ってくるのだから、ね、心行を毎日しよりますと言うても、その心行の中に、喜びも何もみずみずしい信心がでけんとするなら、まだまだ心行に目が粗いことに気付かせてもらい、家業の行がおろそかになっている事を気付かせてもろうて、ね、そこんところを正していき、そこんところを一段と進めていく生き方になればです、ね、そこから早い遅いにかかわるぞというように、ね、こちらの信心いかんで、信心のおかげの世界が違うてくるんぞ、心の中の喜びの度合というものも、それで違うてくるんだぞよと、いうことになるのです。
 櫻井から梅井に切り替える。ね。おかげの喜びではなくて信心の喜びを感じられるおかげを頂くためには、いよいよもって心行をしなければいけない。心行に徹底する、もちいんなるわけじゃない、心に掛けておるだけなんだ。ね。ところが目が粗い。ね。粗いところを気付かせてもらおう。
 もう合楽ではね、例えていうならば、まあ時間なら時間といったようなことを、例えば私は、四時の御祈念をさして頂くのでん、三時半にはもう絶対出てくる。だから、もう一秒一分だってきるような事はない。もうこれは、私が命のように大事にしておるようなこと。その命のように大事にしておることを切り刻みされるようなことになると、もうほんとに、とにかく心を乱しちゃいかんと思うけれども心が乱れる。ね。
 今朝なんか、若先生が、私が五時に下がってきたけれども、七分間遅れた。もうその七分間というものは、もうそれこそ、もう、もうほんとにもう、七十時間にも匹敵する位に、私は思うです、心の中に。ほんとですよ。ね。心行が出来てない。ね。表行せんからというてです、なら、例えばなら、五時の御祈念であるなら、五分か十分早く出てきたら、ことを自分の信心とするなら、俺にそんな思いをさせるような事はない。ね。
 昨日、修行生の方達も言うたけども、ここで何にも今まで修行らしい修行というものは全然せんのだから。いや、今まで言うてきた修行です。ね。だから、なら朝の御祈念の厳守とか、朝昼晩の、いうなら勤めのようにしておる、その勤めをほんとに修行と思うて、一分一厘間の違いのないような修行に取り組む事が今の合楽の修行なんだ。
 だからこれは、修行生だけの事じゃありません。ね。信者さんの皆さんも、やはりそういうところに合楽の修行というのは、そういうところに、ひとつ信心を、焦点を置きますと信心が毅然としたものになるように思います。
 しだごだのものでは、やはりおかげもしだごだ。ね。今日御理解はそこんところが、私は教えてあると思うんですよ。ね。先生の早い遅いは、信者の早い遅いに関わる。ね。先生が真の信心をすりゃ、信者も真の信心をだんだん頂きたいと言うてくる。と言う事と同じでしょう。ね。
 これは、絶対の理ですから、ね、そこんところを私共が、まあ、あやふやになっておったり、しだごだになっておるところがあるならば、それを正していこうとする精進努力というものが、ね、合楽での修行ですから。他に修行はないです、合楽は。ね。
 それが、いうならば身に付いてくる。自分のものになってしまうまでが信心辛抱である。ね。いわゆる桜の信心から梅の実の信心に切り替えられていくということになりましょう。ね。 今日は、私は一番最後のそこのところに、まあ焦点をおいて聞いてもらった。ね。
 皆さんの早い遅いは、いうならばおかげの早い遅いに関わるぞというふうに頂かれてもいいわけです。ね。頂けないおかげ、そんならお願いしよるけんいつかはおかげ頂くだろうというようなこちゃなくて、そこに一段と変わった信心に進んでいく。そん時には、やはり少しは辛いようですけれど、それが身につくと、そうしなければ気持ちが悪いというか、まあ気持ちが悪い。そうしなければおられなくなってくる信心、そこに、いうならば正確な信心。それが大きくなれば大きなおかげに伴なう。ね。それが豊かになれば、いよいよ豊かなおかげにつながる。
 お道の信心の修行というのは、ね、もう表行全廃、心行だけだから楽だ、というのじゃなくて、その、本気でその心行に取り組むということはですね、例えば、踊りの稽古をさしてもらいます。ね。男舞いは男舞い。女舞いは女舞い。ね。それがです、不思議です、女の方が男の舞いの上手な方がおられますが、ほんとにいうならば男性的な踊りが踊れれるようになります。稽古していくうちにです。ね。例えば、男の方でも女舞いの稽古をいたしますと、体がなんとはなしに、それこそ柔らかくなります。ね。そして、女でも出せないような所作、または色気が出せます。ね。
 だから、別なものから持ってくるということじゃない事が分かるでしょう。信心修行もそうです。水の行をした、火の行をした、としてするのではなくて、ただ、踊りの稽古をするなら、踊りの稽古に一心になると、ね、自由自在に体が動くような事になるということなんです。しかもそこには、リズムがある。そのリズムに乗っての踊りである。信心もそうです。ね。不思議にそれが身についてくるようになります。ね。
 私は、あの、表行という外から持ってくるもんじゃない。稽古次第で女のようにもなれれば、男のようにもなれるんだ。心を自由自在に使えるようになれるんだ。形の上のこともです、もう、きちっとそうしなければ、もうリズムからはずれるんですか、もうリズムからはずれることが嫌です。リズムに乗った生き方をいよいよ身につけいくためにもね、いわゆる表行全廃ですから、いよいよ心行に家業の行に、いよいよ打ち込んでそれがほんとに行として自分の身についてくるようなおかげをひとつ頂きたいですね。  どうぞ。